皆で読む・時を経て読む <ゼクエンツより>
Twitter上で、1月24日のつぶやきのひとつが目に入りました。
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はま松さん@濱松哲朗 @symphonycogito
木管の一人にたのむ そこ切つてください、ロマン派ではないので
ふれがたく黒白〔こくびやく〕の鍵盤〔キイ〕整列す美しい音の棺のやうに
/河野美砂子『ゼクエンツ』
1首目、オケ出身勢なら「あ〜分かる〜」となるんじゃないか。
これ、演奏する時にひと息のフレーズをどこまでと取るか、という解釈の相談で、ロマン派ではない=古典派以前、ということで、ピリオド奏法的に楽譜のスラーに忠実にやりましょう、ってことになるわけだけど、そういうこと知らなくても「ロマン派じゃないと切るんだ?!」って驚きに繋がる気がする。
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うお、と声が出ました。
「ロマン派」の歌の謎が、7年を経て解けたのです。
この河野美砂子さんの歌の初出は「塔」2009年8月号の<月詠>だと思います。
<月詠>とは、塔会員が毎月10首ずつ提出し、月替わりの選者による選を経て、
3か月後に結社誌上へ掲載される作品の通称です。
私はその2009年度に「選歌欄評」という頁を担当していて、
真中朋久さん選の会員作品の批評を執筆していたのです。
以下、小文を引用します。
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木管の一人にたのむ そこ切つてください、ロマン派ではないので
河野 美砂子
クラシック音楽の教養がほとんど無い私。お恥ずかしいことに木管もロマン派も、よくわからない。そことはどこ?切るって何を?なのに、この歌に魅かれる。区跨りをいとわず、発した言葉そのままを詠んでいる。ロマン派の楽曲は長大になりがちとのこと。演奏を引き伸ばす木管楽器奏者に、作者が丁寧に、だがきっぱりたのむ場面を想像する。それはまるで万事における冗長さ・緩さ・甘さを断ち切る台詞のようで、小気味よいのだ。知識が有っても無くても、からだのまんなかを射抜かれる作品がある。音楽にも短歌にも。
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この歌は美砂子さんの第二歌集『ゼクエンツ』(2015年5月発行)に収録されました。
あとがきに「Sequenz」は音楽用語(ドイツ語)で、
「音高を変えながら繰り返す、同一音型」というニュアンスだろうか、
とあります。美砂子さんはピアニストとしても活動中なので、
音楽をテーマにした短歌作品も多く詠んでいらっしゃいます。
そして濱松さんも塔の会員であり、交響楽団に所属する音楽知識が豊かなかたです。
彼のつぶやきで、目の前がひらける思いがしました。
文頭では「謎が解けた」と書きました。が、ほんとうをいえばやっぱり音楽音痴(?)
なので、濱松さんのつぶやきの意味の、おそらく半分も理解できていません。
それでも、楽団の人々の相談の様子、本番までの丹念な練習や緊張感が想像できます。
私にはぼんやりとしか視えなかった歌が、しっかりと輪郭を帯びてきました。
濱松さんに解釈のヒントを分けてもらえたことが、とても嬉しいのです。
同じ作品を複数の眼で鑑賞すること、さらには折に触れ読み直してみること。
塔短歌会の掲げる「読むよろこび」を、改めて教わったように思います。
ちなみに濱松さんは、塔の若手男子を「おそ松さん」の6つ子になぞらえる試みで
愛すべき長男坊ポジションにあるのですが、今回の記事が長くなりましたし、
機会を改めて。て!あああまたもや自ら宿題を上乗せしたか。
いえね、おそ松さんについては私もつらつら語りたいことがあるのでしてね……。
※追伸※
角川短歌年鑑・平成28年度版に掲載、小原奈実さん(本郷短歌)による
『ゼクエンツ』評、聴覚から深く掬いだす解釈が美しい、としみじみ拝読しました。
なみたん……。
※おまけ※
2009年8月号、美砂子さん作品の隣の頁の企画「仏像を詠む」の表紙がCOOLで、
当時も評判を呼びました。切手コレクションの写真!